正直言って、病気になってもいい先生と出会えるかは大きいと思う。
治す、治さないももちろんなのだけど
患者さん自身を見てくれるかどうかもかなり大きいと思うのよ。
今日の夕方、退院前カンファレンスをやった。
先週の同じころにも、ガンの末期、自宅に帰るのも一緒な退院前カンファレンスがあった。
一生懸命参加しようとしてくれる先生もいれば
看護師に任せて、何の意見も残さずに勝手にやってくれという先生もいる。
(そりゃ忙しいのもわかるけど、何も言うことがないってなんなのさ)
訪問診療に渡すお手紙の内容も、方や丁寧にわかりやすく書いてあれば
長い経過なのにたったの数行のことも。
調子のために間に入る身としては、ご自宅に行ってもらってお願いする立場なのに、すっかすかの内容のお手紙をFAXするとき、申し訳ない、いたたまれない気持ちになる。
今日のカンファレンスは先生が本人、ご家族の気持ちを汲んで、言いにくいことも時間をかけて説明して下さっていた。
「いずれは緩和ケア病棟に行くのがご本人のみんなに迷惑をかけたくないという気持ちに沿っているかもしれない。でも奥さんはできるだけご主人に側にいてほしいんですよね。
自宅に帰ってみて、このまま行けそうということならば、そのままご自宅でお看取りでもいいですし、病院の方が安心ということであれば私が窓口になって対応します。」
その言葉を聞いて、担当のケアマネさんからも
「ご主人はとにかくしっかり治療をやりたい人で、大変な時も頑張ってきた。奥さんはご自宅で看取りたいのかなって思っていました」
って言葉に奥さんも頷いて・・・
ACP(アドバンスド・ケア・プランニング?(ちょっと怪しい))が大事、大事と言っているけれど、そんな言葉にしてやろう、意識しよう、と声高に言わなくても
その人の人生を大事にしたい、その人がどうやって生きて、どうやって最期を迎えるのが、すべては叶わないけれど、ベターなのか、納得がいくのか、そんな風に考えれば、患者さんのことを知ろうとしたり、何気ない会話の中にたくさん隠れていたりするんだよね
それを、とてつもなく多忙の中で、急性期の医師が自然とやっていることに感動したし、この患者さんのために私の立場、役割でできることはやりたいって心から思えたよ。
そして、この患者さんはいい先生に当たったよね…
言葉にしなくたって、感じるものはある。
いい気持ち、悪い気持ち。
言葉という一つのわかりやすい形にしなくたって、お互い感じ取るものはあるよね。
それが、信頼になったり、心を許せたり、開けたりするもんだと思う。
せわしない毎日の中で、忘れがちな人としての心を
何も看護師という言葉にとらわれなくても、自然とできることはあるのだと思う。
そして、1人のプロとして、できることはきちんと、それ以上に心をこめてやりたいよ
さらに、本当に先生との出会いやご縁、運なのだと思う。
いい先生も悪い先生も
腕が良くても感じがいい先生も、頼りなくてもひたすら優しい先生も
色んな先生がいる。
医師も人間だ、人間力のある先生と気持ちよく仕事をしたいよね・・・
(もちろん腕が立ってもらわないと困るけど!!!)
今日の感謝
①死ぬほど忙しいのに、退院前カンファレンスに率先して参加して下さった先生に感謝。やっぱりDrの言葉が一番腑に落ちてしっくりくる
②忙しいのに、いつもニコニコ対応してくれる病棟の看護師さん。いっしょに退院前カンファレンスを支えてくれて感謝です。
③そして、参加して下さった、訪問診療の先生、訪問看護さん、ケアマネさん・・・。急な調整にもかかわらず、快く集まってくださって、とっても頼りにしています。どうかうまくご自宅に帰れますように、祈るしかないけれど、このチームなら大丈夫だ!!
あぁ、今日も感謝で1日終われて、幸せね。
そういや、娘が初めて息が止まるくらい、ツボにはまって笑い転げていたの見た。こっちも笑えるくらい
箸が転げても笑えるお年頃は、こっちもにこやかになるわねーうふふ。